……その時、みかどの御むすめ、いみじうかしづかれたまふ、ただひとり御簾の際に立ち出でたまひて、柱に寄りかかりて御覧ずるに、このをのこの、かくひとりごつを、いとあはれに、いかなる
「……丁度その時、帝の御娘で、たいそう大切に育まれておいでの姫宮が、たった一人で御簾の際までお出ましになり、柱に寄り掛かって御覧になったところ、この男が、こんなふうに独り言を漏らしているのに、とても心惹かれ、いったいどんなひさごがどんなふうになびくのだろうと、ことのほか好奇心を抱かれたので、御簾を押し上げ、『そこの男、こちらへ来なさい』とお召しになったので、恐る恐る欄干の傍にうかがったところ……」
――わたくしにとっての最高の贅沢は、誰に咎められることなく、馬で思う存分に野を駆けることです。お父様、お父様にとっての贅沢は何ですか……?
白麗院はそっと息をつく。巻き上げられた御簾の向こうは、白く霞んでいた。暖かくなってきたばかりだというのに、都には季節はずれの雪が、絶え間なく降り注いでいる。
「まったく、なんということ……」
忌々しげに檜扇で床を叩き、 弘徽殿の女御は紅い唇を噛んだ。
「一体我が孫のどこが気にいらぬと申すのか。……あてつけのようにこのようなもの!」
ばしり、と鈍い音を立てて扇が折れる。女御の前で叩頭していた典侍がさっと身を起こして目の前の乱れ箱を抱えた。なにもかも気に障るのか、弘徽殿が歯噛みをして隅で縮こまっている女房達に折れた扇を投げつけた。
「院! もとはといえば、あなた様があの小娘を甘やかしたからにございますよ! 藤壺の方と共に好きにさせるから、あのようなつけあがった娘に育ったのです!」
先触れも出さずに正殿に来た弘徽殿の剣幕に、院はいい加減うんざりしていた。
一人娘である
しかし、それは失敗に終わった。娘が都に戻ることは、二度とない。
「弘徽殿、もう良い。下がれ」
「院!」
「……これも天の采配であろう。そう思え」
典侍に手を振ると、一礼して退室していく。弘徽殿が居座るつもりなら、自身も正殿にいるつもりはさらさらなかった。南廊に向かう院の背中に、金切り声がぶつかる。
「南所に参られるのですか」
「弘徽殿、私が疲れているうちに、はやく実家さとに下がれ。知っているだろう、私は近く白河の小御所に移る」
ここは大内裏に程近い一条院だ。白麗院は長くここを在所にしてきたが、数日後には白河小御所に移ることになっていた。
寵臣――と勝手に名乗っていた輩達なので特に感慨はない――はことごとく位を追われたり、才を買われて今上の臣となったりして、今は侍従と女官が数えるばかり。后妃も寂れた在所を厭い、多くは出家し、または実家に下がった。女御の中で最高位にある弘徽殿も類に漏れず、実家に下がることが決まっていた。
院に同行する妃は、藤壺の女御のみである。
「……口惜しや……あの、若造めが」
弘徽殿は、今上帝を長年追い落とすべく画策してきた。それに次男も乗じているのは知っていたが、院は特に何も手を下さなかった。
己は病弱な孫に帝位を譲ることを、最後までよしとしなかった。なにも頭ごなしに否定していたわけでなく、彼の身体を見れば国を背負わせる選択など愚かだと考えたからだ。それでも孫は帝位に固執した。思えば、いつも自分に怯えていた孫が、強く言い返したのはあれが初めてだった。
『私が帝位につき、国を護る』
名ばかりの皇太孫が、背筋を伸ばし、凛と言い放った。周囲を威圧するまでの威厳を纏って。
前斎院は、まさしく鶴の一声だと嬉しげに笑っていた。あまりにも夢物語のごとき世迷い言だというのに。前斎院は甥にあたる皇子を信じ抜いていた様子だ。
常にない孫の気迫は若々しさに溢れていた。ならば、やってみるがいい。皇帝の首など代わりはいくらでもいる。そう云って、玉座を譲った。
帝位の器がどれほどのものか。暗殺の計画や臣の策略を耳にしても、指一本動かさにいた。一度でも玉座を、
「……そなたは実家さとに下がるのだから、女房の数は減らさずに済むであろう。私のことは忘れるがよい」
「わたくしは!」
弘徽殿は今の局より狭い居室で女房の数を減らした生活などまっぴらだとなじり、果ては後宮に戻りたいと言い出す始末。既に後宮は、昔の様相など遺していないというのに。入内してきた頃から、弘徽殿に癇癪を起されるのが面倒で、好きにさせてきた自分の所為と言われればそれまで。自業自得というものなのだろう。
「院は、わたくしに何の未練もないと……。そうして、打ち捨てるのでございますか」
不満を声色にのせて、弘徽殿は顔を歪ませた。流れ落ちる涙で白粉が剥がれおち、紅も滲んでしまっている。
夫婦として、確か四十年以上は共に在った女。その女が目の前で泣いている。だというのに、院の心の内には何も湧きあがってこなかった。ただひとつ、分かっているのは。
「違うだろう」
口の片端を引き上げて
「そなたが私を捨てるのだ」
雪の降りつもる庭を、飽きることなく見つめている細い背中があった。
齢四十と少し。弘徽殿より十近く若い彼女の長く伸ばした豊かな黒髪には、白いものもまじっていない。化粧は少女の頃に入内したときのまま、薄く白粉をはたいて、花の紅を差す控えめなもの。なよらかな見かけに反して、随分と思い切りの良い妃の横顔は、可憐なままだ。
「藤壺」
「……院。おいでなさいませ」
流れるような所作で指を揃えて頭を下げる。しかし室内にいる自分の側には寄らず、端近に座したままだ。
「そなたはまた灯りもつけずに雪見か。年を考えろ」
「まあ。院はわたくしよりも十と五つ……でございましたか? うんとおじいちゃまでいらっしゃるのに、心外ですわ」
ころころと笑う妻に毒気を抜かれ、院は脱力した。扇で招けば、藤壺は今度こそ素直に院の目前に伺候する。
「先日届いたものだ。……遅くなってすまなかったな」
畳紙に包まれた差し出されたそれを、藤壺の女御は柔らかく抱きしめた。
ふわり、と真耶花の香りが漂う。娘が好んで使っていた香だ。
「ふふ、弘徽殿のお方は随分と気分を害されたでしょう」
「扇を三本は無駄にしていたな」
戦が落ち着くやいなや、縁談を進めた親族に、女一の宮が烈火のごとく激怒したのは言うまでもない。しかし、弘徽殿達は決めてしまえば閨の中でいくらでも、と甘く考えた。とにかく都に連れ戻そうとした矢先に、娘は髪を下ろし、切った髪を遺髪として都に届けるように言付けて鈴嘉山に姿を消したのである。
付き人は八幡と呼ばれる女房一人。残された巫女達が深山に分け入っていく女一の宮の姿を、涙ながらに確認している。
都では「敬虔すぎるが故に、思い詰めてしまわれたのだろう」と生涯を信仰に捧げた皇女として半ば神格化され始めている。
しかし、親しくしている者、ましてや後年は衝突ばかりしていたとはいえ、父親である白麗院は、娘が殉道を自ら選ぶなどにわかに信じがたかった。
娘はささやかな霊能しか持たなかった。恐らく呪を無力化する藤の血を引いているが故であろう。そのため、かなりの現実主義者であった。
戦時中は被災した民の為に、神饌を奉納する神三郡以下神領全ての年貢を救援に当てた。有史以来、国中の社から「食えぬ神より食える民に与えた方が神も喜ぶ」と言い切って神饌を無くした巫女姫は後にも先にも女一の宮一人であろう。
その娘が、霊山で庵を結んで祝詞を上げ続けるような生活を自ら選ぶとは到底思えなかった。影士を動かし、探らせた先の真実に、流石の院も絶句した。
「どうかあの子を咎めないでくださいませ」
「……」
感情の起伏がない、と自覚している自分でも、苦い顔をせずにはいられない。
娘は、自分の死を偽装して、元衛士頭であった男と武蔵に出奔したのである。決して穏やかとは言えない雰囲気を身にまとった夫に、藤壺はそっと眉根を寄せた。
「ずいぶんと奔放な気性にお育てはいたしましたが、あの子は決して国と民とを蔑ろにはしておりませんでした」
――愛宮(まなみや)
生まれたばかりの娘をそう呼んで抱き上げた記憶が、ふとよぎる。内親王とは名ばかりのはねっかえりの娘。その子が男と駆け落ちしたと聞いて、自分は狼狽した。僅かに怒りを覚えもした。それは、確かに娘を愛していた証拠でもある。
そのような感情が、自分にはあったのだと、院は驚いていた。誰にも、何にも心を動かさない。感じ入る、という部分を長らく凍らせたままなのだと思っていたのに。
「おのがために皇の力を使ったことは一度もありません。ですから、どうかこのまま……」
「それ以上は言わなくて良い」
降り止まぬ六花を眺めながら、院は忍びやかに笑んだ。さきほど弘徽殿に向けたそれより、遥かに穏やかな笑みを。
「此度、私の愛娘は信仰に殉じた。近いうちに葬儀も行うが、ささやかで良いだろう。仰々しいことはお嫌いな姫宮であったからな。御陵みささぎは藤の家に頼む。――それで良いであろう?」
「……! ありがとうございます……」
院が娘を無理矢理連れ戻す心算を持っていないことを察し、藤壺は深く頭を下げた。
(……ああ、一の宮。わたくしの可愛い娘。どうか、どうか)
藤壺は一度目蓋を閉じて、最後に会った娘の顔を思い浮かべた。
(幸せになって頂戴ね。きっと、あなたなら明るい生を全うしていけると、母さまは信じているわ)
熱くなった目頭を袖で抑えていると、外に顔を向けたままの院がふと言葉を零した。
「この雪で、さぞ難儀しておろうな」
娘と、娘を長年護ってきた男を案じるような科白。藤壺は胸に温かなものがじんわりと広がるのを感じながら応えた。
「古より、妹と登れば
そうか、と院が返してから長い沈黙が落ちた。
これ以上御簾を上げていては院の身体に障るから、炬燵を用意させて、奥でみかんでも召しあがっていただこうかしら。
そう女御がおっとり思案していると、静かに院の声が届く。
「……そなたは実家に帰らぬのか?」
いつの間にか夫が普段とは違うこちらを窺うような表情で自分を見ていて、藤壺は瞳をまあるくする。
「まあ、子どもがおらねば離縁でございますか?」
「私は白河に移るつもりだ。帝にもそうお伝えしてある。伴も少ない。弘徽殿は孫の屋敷に下がるそうだ」
その台詞に、藤壺は瞳を輝かせた。心の隅でこっそり弘徽殿に詫びて。
「では、わたくしが院を独り占めできますのね」
「……伴も少ない、と言ったが」
藤壺の反応に、院は戸惑いを隠さずにいた。他の后妃達はこぞって小御所を厭ったというのに、はしゃぐ妻が心の中で思っていることが到底想像できない。
そのような院の様子に、藤壺は娘がよく浮かべていた有無を言わせない笑みを含んだ顔を見せた。
「困るのは院ばかりでございましょう。わたくしは人手を使うことが得意ではありませんから、お世話させてくださいな」
さっぱりとした言い分に、院は二の句が継げなくなった。自分の世話をしたい? わざわざそのような面倒なことを?
「そなた……贅沢をしたくないのか」
院が問えば、藤壺は少し頬を膨らませた。四十を迎えた女人であるにも関わらず、妙に愛らしいそれにますます院は混乱する。
「贅沢とはなにか、院は分かっておりませんわ。きっと、とびきりお腹をすかせたことがないからですわよ」
すぐ傍に膝行いざってきた妻は、夫の手の平にふわりと自身のそれを重ねた。
「いつも人に囲まれていた
頬を紅潮させて、瞳を輝かせて、藤壺は言う。家臣も、都人の心も離れた、どうしようもない自分の傍にいることが至福だと。
菫色の瞳を細めて、藤壺はのせた手の平にほんの少し力を込めた。
「いつか、武蔵に行きましょう」
「なに」
驚く院に、藤壺は畳みかけるように重ねて言った。
「行幸などという仰々しいのは、なし。お忍びで、東国ご自慢の不死山をわたくし見てみたいですわ」
「しかしだな」
「あ。筑波山では歌垣をひらきましょうね。もちろん二人で、ですわよ。とびきりの歌をくださいな」
弾んだ声で次々と未来を語る女御を、ひとまず落ち着かせようと院は彼女を呼んだ。
「藤壺」
あら。と藤壺が瞬きをする。そういえば、訂正するのをすっかり忘れてしまっていた。
「院。もう藤壺にはわたくしの姪が入っておりますのよ」
「では、
大真面目に切り返されて、藤壺の笑みに凄味が増した。
「泣いてもよろしいかしら」
「……千尋」
千尋は満足気にほうっと息をつく。一瞬忘れられていたらどうしてくれようと思ってしまった。
呼ばれられなくなって久しい、真名。入内したばかりの頃、目の前の人に千尋≠ニ呼ばれた時、胸がとくりと高鳴ったことを思い出す。千尋は自分達が真名を交わした甘い夜のことを、淡く思い出しながら微笑んだ。
「雪親さま。わたくしたち、豊かに生きなければなりませんわ。まだまだお迎えは来そうにありませんから」
「……」
雪親は真名で呼ばれたことを咎めず、黙りこんだ。言霊を紡ぐ代わりに千尋の手を握り返してきたので、千尋は大きく頷く。
「綾の斎宮さま、先の皇后さま、そして先の春宮ご夫妻とあちらで再会いたしました時に、うんとお土産話をお聞かせしないと」
「……恨み言を聞いてやらねばならないのでは」
眉をしかめて吐かれた言葉に、千尋は思わず顔を綻ばせる。
「黄泉にお下りあそばして幾星霜、そのようなしんみりしたお言葉など、きっと嫌がられますわ。勿論、わたくしは皇后さまと仲良くさせていただくよう、まずは思い切り喧嘩をいたしますけれど」
先の皇后が身罷った後に入内した自分は、彼女の人となりを知らない。目の前の人の一の人であった女人に会うのは少しばかり複雑であるし、それを隠すつもりもない。けれど、出来るなら同じ人を夫とした者同士、仲良くしたい。
精一杯生きたその先で、自分達は儚くなって久しい人々と巡り逢うのだろう。だから、それまで。
千尋はじっと雪親を見つめた。
「お側に置いてくださいませ」
「……許す」
そう言って、固く凍った蕾がほろりと綻ぶように雪親は笑った。数十年ぶりかに見る優しく柔らかなそれに、千尋は嬉しさが湧きあがり、涙を一滴ひとしずく零した。
雪親は腕を伸ばし、そっと千尋を抱き寄せる。素直にすり寄ってくる妻の頬を撫でると、くすぐったそうに千尋は笑った。その、幸福そうな姿に、冷え切っていた心が温かく満たされる。
『お父様、お父様にとっての贅沢はなんですか?』
その答えを、いつか、娘に直接教えられる日が来るかもしれない。その日を今は静かに待とう。腕の中にいる、この妻と共に。
きっと、この先も。
藤の妻は不散なる想いを咲かせてくれるだろう。
……『われ、さるべきにやありけむ、このをのこの家ゆかしくて、率いて行けと言ひしかば率て来たり。いみじくここありよくおぼゆ。このをのこ罪し、れうぜられば、われはいかであれと。これも前の世に、この国に跡を垂るべき
「……私はこのように生まれ合わせたのでしょうか、この男の家が見たくなって、連れて行けと命じたので男は私を連れて来たのです。ここはとても住み心地良く思われます。この男が罪に問われ、お仕置きを受けることになったら、私の方はいったいどうなれと言うのでしょうか。こうなったのも前世から、この国に住み着くべき宿命があったのでしょう……」